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【金銭教育】「お駄賃」「お小遣い」の価値。【私見】

  • 執筆者の写真: job goro
    job goro
  • 5月12日
  • 読了時間: 6分

更新日:5月18日


久々のブログ。


さて、今日のテーマは。

「気持ちをお金で代替することは悪じゃない」

ということだ。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


私の気のせいかもしれないが。


日本人は、人間関係にお金を交えることに、まだまだダーティなイメージを引きずっている気がする。

「無粋」「意地汚い」「よそよそしい」「水くさい」

といった風にだ。


もちろん、そういう場面もあろう。

あらゆる人間関係がお金で割り切れるだなんて、

そんな乱暴な考え方は、さすがに思っちゃいない。

ただ逆に、あまりにもお金というものから目をそらしすぎるのも、

それはそれで、問題だ。

いくら善意的に、そういう態度をとったとしても、

誰かを、あるいは自分自身を、ときに傷つける場合だってある。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


結局、お金とは、

価値の象徴であり、価値の共有であり、価値の具象だ。

そもそもお金自体に、キレイも、キタナいも、無い。

なのに、だ。

そんな至極当然のことですら、意外と、自分で分かってなかったりする。

お金のことを、あれこれ考えてるだけで、

なぜか、やましい気持ちになってしまう自分がいるのだ。

別に、何も悪いことなんか考えちゃいないのに。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


ちょっと極端な話を出すが。

例えば「金銭貸借」って言葉に対してだって、そうだ。

確かに、「金銭の貸借」と聞いてしまうと、

あまりいいイメージを持たれないかもしれない。

特に教師は、お金のことについて、あまりこどもたちの前で触れたりはしない。

・・・確か、「金持ち父さん貧乏父さん」だったかな?

その中で、語られていたかもしれない。

また、そういった教師の感覚が、根っから間違ってるとも、言えなかろう。


しかし、だ。

世の中の、あらゆる「金銭貸借」的行為が、イコール「悪」と言えるだろうか?

そんなことを言い出したら、そもそも資本主義なんて、まったく成立しなくなる。

経済のイロハ、基本中の基本だ。

なのに、「潔癖」という名の思考停止にしがみついていると、

そんな簡単なことすら、いつしか分からなくなってしまったりするのだ。


例えば「金銭貸借」にしたって、そうだ。

いわば、善と悪、価値と反価値の、両側面がある。

それを判断するのは、貸借という行為を行う、人間自身の問題だ。

その判断を誤ることのないよう、基礎的素養や感覚を、磨いていくことが大事だ。


かといって、何も、貯蓄や投資の勉強をしろってことじゃない。

経済、すなわち「価値の交換」ということに対して、日常生活の中で、折に触れて、自然に、考えていけば良い。

ということだ。

「価値の交換」という行為は、人間以外の生物だって、種によっては行ったりもする。

(意図的か、あるいは本能的・反射的であるかは、定かではないが・・・)

そう考えると、「経済感覚を育てる」というのは、ヒトである前に、生き物として自然なことではなかろうか。

ま、私は経済や生物学の専門家ではないので、

もしかしたら頓珍漢なことを、ほざいているだけかもしれないが。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


また、ややこしい言い回しに流れてしまった・・・

ググーッと本題に戻ろう。


まあ、簡単なところから言えば。

「価値をお金などに代替し、人とやり取りする」

という経験ってのは、若いうちからしておいた方がいいんじゃないかな、と思う。

例えば、「お駄賃」とか「お小遣い」。

ああいう経験は、もっと評価されていいと思う。

もちろん、お金でなくても、他のものでもいい。

例えば、「ごほうびシール」とかだ。

まあ、お金という普遍性のあるものを介しての方が、幅広く考えることができて、いいのかな?とは、個人的には思うのだが。


しかし一方で、だ。

「金やものに釣られて行動するという根性は卑しい」

「本当の、学びの喜びを求めようとしなくなる」

といったようなご意見も、あるかもしれない。

はい。ワタシもかつては、そう思ってました。


でも、最近は。

「『ごほうび』を、そこまで悪しきものとして断定できるものなのか?」

「そもそも『報酬』を欲する思考原理や、行動原理ってなんだろう?」

って考えていくならば・・・

「『ごほうびで釣る』って教育も、あながち否定はできないんじゃないかな?」

なんて、考えるようになってきた。


まあ、その是非はともあれ。

そういった価値の交換や見返りの取得という経験は、大事だと思う。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 


あと、それに加えて、大事なものがある。

それは、周囲の大人による「適切な助言」だ。

損した時も。得した時も。

その感情をどのように整理すれば良いか。

そのための、適切なアドバイジングや示唆は、やはり欠かせないと思う。

ただ、何を持って適切かと言われれば、

それはそれで、一言では言いきれないところだが。


(・・・そういえば確か、森永康平氏だったかな?

経済教育の重要性について、どこかの動画で語っていた気がする。

やはり専門家の方のおっしゃってることの方が、説得力がある。

ワタシのような、経済のど素人がのたまってるのとは、まるで違う。

ご興味のある方は、検索されてみるといいかもしれない。)


ともあれ。

金銭教育・経済教育とは、いわば「交換価値」の学問ともいえよう。

モノ、あるいは無形物の「価値」について考えること。

金やモノで代替できる価値。代替できない価値。

理屈だけで割り切れない場合もある。

答えの出ない場合だってある。

でも、こういうを、日常生活の中で折に触れて考える。

経験し、考察し、再解釈する。

当然、矛盾や葛藤も、生じてくるであろう。

でも、それらの往復作業の中で、

「生きた」力、経済感覚ってのは、少しずつ育まれていくような気がする。

その経験や足跡は、決して無意味なものにはならないであろう。

人から聞いたコトの受け売りだけでは絶対に得られない、

知恵や、賢明さといった資質もまた、磨かれるように思う。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


・・・ちなみに。

ワタシもそういう体験を、少なからず経てきたはずなのだが。

「お人よし」で「欲がない」性分もあったのだろうか、

やっぱり、世の経済活動から目を背けてきてしまった感がある。

その思考停止のツケが、今、自分に返ってきているような気がしてる。

このたびも、起業するにあたり、

お金のことを考える場面において、

何度となく、謎の罪悪感に襲われたりするのだ。

側から見てたら、なんとも滑稽な話なのだが。


まあ、そんな反省もあって、最近はワタシも。

「お金として、もらうべきものはもらう」

よう、心がけている。

大事にしたい人間関係であればあるほど、

場面によっては、なおさら、そう考えるようにしている。


こういうのって、「がめつさ」とか「エゴ」なんかじゃない。

むしろ逆だ。

相手の生活や人生を慮るという、社会人として求められるべき態度だ。

そんなことにも、遅まきながら、最近やっと気づき始めている。


しかしまあ、それにしても。

こういう経験や思索は、もっと若い時にしておくべきだったかなぁ。

若い人たちに、こういう後悔はしてもらいたくないものだ。

これから出会う若い人たちには、そんな自分の無様さを、

あえて、さらしていこうかな、なんて思ってる。

まさに「反面教師」として、だ。


2026.5.12

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